よくある質問 よくある質問

Q1. なぜ天童に広重美術館があるの?

幕末、天童藩が財政難の時に、広重に依頼して描いてもらった「天童広重」と呼ばれる作品群があります。肉筆画といって、絹に直筆で描かれたものです。当時200~300幅くらい描かれたのではないかと思われますが、現在天童市近郊で確認できる数は22幅までに減っており、貴重な作品となっています。

こうした天童とゆかりの深い広重の画業を記念して生誕200年にあたる平成9年4月、広重美術館が誕生しました。

Q2. 天童広重ってなに?

江戸時代後期、江戸詰の天童藩士と狂歌を通じた仲間で親しい関係にあり、天童藩医田野文仲とも交遊があったのが歌川広重でした。当時、天童織田藩は度重なる出費で深刻な財政難に陥っており、藩内外の裕福な商人や農民に献金を募ったり借金をしたりしたもののなかなか改善されない状態でした。そこで、江戸で有名な絵師広重に依頼して藩のために肉筆画を大量に描いてもらい、献金に対しての褒美や借金返済の代わりとして藩民に与えたのです。

浮世絵史上において、大名から町絵師に作画依頼されることは大変珍しく、明治時代に入り浮世絵が外国人や愛好家から珍重されるようになると作品の多くは都市や海外へと渡り、この地を離れました。この一連の作品群が「天童もの」「天童広重」などと呼ばれ、今日に至っています。しかし、度重なる震災や戦災によって多くは消失したといわれ、現在国内外あわせて80幅程度が確認されています。

Q3. 歌川広重と安藤広重、違う人なの?

同じ人です。初代広重は武士の出身で本名を安藤重右衛門といいました。広重という名前は師匠の歌川豊広から与えられたものです。

豊広の広と重右衛門の重をとった雅号で、歌川派といわれる一門の絵師としての名前なので、現在では歌川広重として広く紹介されています。

Q4. 歌川広重は一人ではないの?

五代まで続きました。三代までは門弟の一・二番弟子が代を継ぎましたが、四代は縁あって広重の名前を継ぐことになりました。五代目は四代の子供が継いでいます。

Q5. 肉筆画ってなに?

浮世絵師が絹や紙、板などに直接筆で描いた作品のことをいいます。版画は一度に何枚も同じものができるのに対して、肉筆画はこの世にただ一つの貴重な作品です。

Q6. 錦絵(浮世絵版画)の原画はないの?

基本的にありません。版画の場合、浮世絵師が描いた墨線だけの絵[版下絵]は、裏返しにして直接板に貼られ、紙の上から彫り上げられます。この時点で、絵師が描いた直筆の下絵は消失してしまうのです。

Q7. 浮世絵師は一人で彫り、摺りをしたの?

錦絵は共同作業で完成される版画です。版元(現在の出版社)が企画した内容にそって絵師が描き、彫師が何枚もの色板を彫り、摺師が一気に摺り上げます。一枚の版画ができるまで何人もの人の手がかけられている、いわば総合芸術作品といえるでしょう。

Q8. 大判や間判ってなに?

錦絵(浮世絵版画)の判型の呼び名で、作品の大きさを表します。約39×53cmの大きさの大奉書を、竪二分割にしたものを大判といい、その半分を中判といいます。大判は錦絵に最も作例の多い判型です。間判とは、約33×47cmの小奉書を竪二分割にしたものです。ほかに、裁断の仕方によって、中短冊判や小判などと呼ばれる判型があります。

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Q9. なぜ毎月展示替があるの?

錦絵の絵の具は、ほとんどが草木類から作られていて、太陽光はもちろん電灯の光にも非常に弱く、すぐに色あせてしまいます。このようにデリケートな作品を永く保存し、良い状態で鑑賞していただけるよう、浮世絵の展覧会や専門美術館では1年間に約1ヶ月という展示制限を設けています。