江戸時代後期、江戸詰の天童藩士や藩医の田野文仲と交遊のあった歌川広重(1797~1858)。当時、天童藩織田家は財政が苦しく、藩内外の裕福な商人や農民に献金を募ったり、借金をしたりしていました。その御礼や返済の代わりとして江戸で有名な浮世絵師、広重に肉筆画を描いてもらい下賜しました。この作品群は現在「天童広重」と呼ばれています。当時は200~300幅くらい描かれたといわれていますが、現在天童市近郊で確認できる数はわずかとなってしまいました。こうした広重とのご縁にちなんで、生誕200年にあたる平成9(1997)年4月、湯のまち天童に広重美術館が誕生しました。
画像:「吉野之桜 龍田川之紅葉」(天童広重)
初代 歌川広重(1797~1858)
- 寛政9年(1797)江戸八代洲河岸定火消屋敷に生まれる。幼名 徳太郎。
- 文化8年(1811)この頃浮世絵師を志し、歌川豊広に入門。
- 文化9年(1812)師・豊広から広重の画号を許される。
- 天保4年(1833)「東海道五拾三次」(竹内孫八、鶴屋喜右衛門版)開版。好評を得る。以降、名所絵・街道絵はじめ数多くの作品を描く。
- 安政5年(1858)9月6日暁に没す。法名・顕功院徳翁立斎居士
辞世
「東路に(へ) 筆を残して旅の空 西の御国の 名ところを見舞 」